Single 「シングル」と家族/縁(えにし)の人類学的研究

やもめぐらし--寡婦の文化人類学

椎野若菜編

単行本: 339ページ
出版社: 明石書店 (2007/5/24)
ISBN-10: 4750325651
ISBN-13: 978-4750325651
発売日: 2007/5/24


【目次】

はじめに(椎野若菜)
この本を読む前に(伊藤 眞・椎野若菜・福井栄二郎・渡邊欣雄)
第1部 制度のなかで生きるやもめ
 第1章 配偶者亡きあとの再婚——逆縁婚と順縁婚(渡邊欣雄)
 第2章 くらしに埋めこまれた「レヴィレート」——ケニア・ルオ社会(椎野若菜)
 第3章 寡婦がうまれる条件——オーストリア農村の結婚について(森 明子)
 【コラム1】北欧の寡婦たち(レグランド塚口淑子)
 第4章 タプタニがやって来る——女性同士の結婚の「夫」というやもめ(小馬 徹)
第2部 やもめとセクシュアリティ
 第1章 ヴェドヴァの「力」の背後にあるもの——イタリアの寡婦(宇田川妙子)
 第2章 夫を亡くした女が困らないわけ——ニューギニア・テワーダ社会(田所聖志)
 【コラム2】寡婦の誕生——ヴァヌアツ・アネイチュム女性の過去と現在、そしてキリスト教(福井栄二郎)
 第3章 白いサリーと赤いシンドゥール——北インド農村の寡婦の物語(八木祐子)
 【コラム3】サティー(田中雅一)
第3部 慣習、宗教と戦いのなかのやもめ
 第1章 漢人寡婦と儒教倫理——その理想と現実(秦兆雄)
 【コラム4】最後に笑うのは寡婦——南タイにおけるムスリムと仏教徒(華人系、タイ系)の混住村落にて(西井凉子)
 第2章 戦争未亡人の物語と社会の軍事化・脱軍事化(上杉妙子)
 【コラム5】イスラーム法における寡婦(堀井聡江)
第4部 変容する社会と「たゆたう」やもめ
 第1章 「イエ」の外に曝される寡婦——儒教的寡婦像とグローバル化のはざまで(岡田浩樹)
 第2章 南海の島の寡婦たち——パプアニューギニア・マヌス島クルティ社会(馬場 淳)
 第3章 結婚の絆、夫婦の絆——家族の観点から(伊藤 眞)
おわりに まとめと新たなはじまりにむけて(椎野若菜)


はじめに
                                           
「シングル」というフィールド——文化人類学の視点から
いま、日本でなにかとすぐふれられる「シングル」にまつわる世代や特徴、生き方、を表す言葉たち——おひとりさま、アラサー/アラフォー/アラカン、草食系/肉食系、「非モテ」・・・・etc. 自分はいま、日本のこの社会のなかで、なんていわれるカテゴリーにはいるんだろう、将来はどうだろう。少なくとも多くの人が、自分と「シングル」、について考える瞬間があるのではないだろうか。たとえば、自分は一人で何だってできるぞ、自由を謳歌して生きる、という大きな期待と希望をもって。また、一人のままで生きていけるだろうか、いつまで一人でいる人生なのか、とある疑念をもって。一人になって自分の新たな人生を生きたい、その日はいつ来るんだろう、というストレスをもって。
パートナーとの関係の不安、パートナーがいない不安。人はだれだって基本的にひとりで生まれ、死ぬのである。でも人は「だれか」(単数であれ複数であれ)といい関係性をもっていないと不安なのだ。だから、多くの人が今の自分、あるいは今後の自分を考えたときにこうしたテーマに関心がでてくる。たとえ、ある人が孤立したくても、まわりが関係性をもとうとしてくるのが常である。それが多くの人間社会であり、人間関係が日々、生きた木の根のように四方八方に伸び、切れ、また新たに伸び、絡み合っていく。
そして、もうすこし視野をひろげて社会をみたときに、たくさんの疑問がわいてくるはず。日本で最近つくられた婚活、離活、という造語やまた孤独老人なんてことは世界中で話題になっているんだろうか。そもそもほかの国では、シングルってどんなイメージがあるんだろう。どんなふうに楽しんだり、どう扱われたり、悩んだりしているんだろう。こうしたあなたの疑問に答えてくれるのは、あなたと同じ日本社会に属し、そしてほかの国で実際に人びとと家族の一員として暮らし、もしくは親しい友人としてともに悩み考え、楽しんだことのある人類学者だろう。その土地にいる人たちが何に悩んでいるのか、自分の境遇をどうプラスに転換する術を編み出しているのか。社会や親たちが決める定番の「生き方」にぶつかったり、経済的、政治的な要因で悩んだり、迷ったりしている様子は、その社会にある程度長い時間入り込んで、暮らしをともにしないと知ることはできない。お決まりのYes or Noの質問票、統計資料だけではわからない、人間の複雑な生きる術と悩み。本書では、異なる文化をもった特定のフィールドと行き来する日本の文化人類学者が、土地の人びととともに暮らし、人間関係を丁寧に構築してきたフィールドワーク(実地調査)の経験のなかから、この「シングル」のことを日本の文脈、土地の文脈をふまえて考えていく。

自分が何者であるのか
自分がどのような人間であるのか、ということは、もちろんフィールドワークに大きくかかわっているはず。これまでの人類学的な仕事は、そうした調査者の属性の影響や、調査者自身が人びととの関係のなかで感じている自分の居場所、あるいはどう見られているのかといった問題を、ほとんどだしてこなかった。本書は、人類学者がフィールドの人びとにどんな影響をあたえているか、どう見られているのかを人類学者自身が考え、「シングル」というテーマを自分にひきつけてフィールドを介して告白する、初めての試みでもある。
文化人類学、という学問は、自分が慣れ親しんできた地域、文化圏をとびだして異なる文化、土地に長期間身をおくことで、その「異なる」文化の理解にトライする学問である。異なる土地で地元の人びとと話し、ともに食べ、ともに出かけ、多くの時間を過ごすことで人びとの文化の「理解」に近い状態になることをめざすのが、人類学者である。そして、この学問のすばらしいところは、フィールドワークをとおして、人生について、生き方について具体的事例をもって学べることだ。異なる文化の人たちと生活しながら苦楽をともにし、ときに集中してインタビューすることで、その人の人生から、生き方を学ぶ。ともに暮らすことで、生活の知恵、また生死や性についても、自然と考えさせられる機会が多い。「シングル」についても、しかりである。人びとが考える生き方について調査し学ぶ過程で、当然ながら、インタビューする相手も自分のことに関心をもってくる。直接に根掘り葉掘り聞かれることもある。それはまた、自分はフィールドの社会で、どのようにとらえられているのだろう、という自分への疑問にもなってくる。少なからず、自分はどう生きていこうか、と考えさせられることになるのだ。
誰だって、世の中でいわれる「事象」が、自分の場合はどうだろうと、つねに自問自答しているはず。いろいろな生き方のオプションを知ることで、「みんなと同じ」ことを好む日本人の比率はもっと低くなり、自分の生き方を考える機会、また達成することがしやすくなるかもしれない。いうまでもなく、「ひとり」である、「シングル」であるという問題が個人ではどうしようもない社会文化的基層、政治経済情勢がかかわってくるのも、否めない。
Singleという英語から輸入した「シングル」というカタカナ単語も、日本では、結婚していない人を意味することが多い。ただ、世界では結婚の意味も多様であり、日本をふくめ、現代は日々そのありかたや意味が変化している。結婚していても一人で暮らしていることもあれば、結婚していなくても誰かとともに暮らしていることもある。だから「シングル」という語ひとつとっても、さまざまな状況が想定される。だが、けっきょくは自分がどんな人たちと如何にかかわりながらどう生きるか、という問題に収れんしていく。さまざまな価値観、文化を生み出した人間の生き方の知恵を本書から体験できること、まちがいない!

本書のエッセイ紹介
第1章 人類学者のフィールドから
人類学者それぞれのフィールドワークの現場、調査のプロセス、地元の人びととの長年の深い関わりのなかで、「シングル」というお題が自己の背景がどのように影響してくるのかが描かれる。切っても切れない研究と自己の問題があるのだ。
一夫多妻で離婚率がすこぶる高いアフリカ、ザンビアの女の子は、年頃になるとどう人生を選択していくのだろうか(成澤徳子)。フィールドでなんでも言い合う親しい女友達、ロータスが経験した妊娠と結婚のなりゆきを彼女とともに悩み考え、彼女を見守ることで、アフリカ女性の地位と生きる選択肢、すなわち既婚とシングルについて身をもって考えることになる。つづいてのテーマは、筆者自身が大学院時代、男性の院生たちとも議論し考えてきた「もて」についてである(田所聖志)。その自らの差し迫った自己の問題としての経験と議論から、田所は「もて」と「シングル」という視点で、ニューギニアと日本について比較を試みながら、同じ男としての生き方を考える。
そして章のさいごは、インドのヒジュラとよばれる、男性として生まれながら、去勢し女性の姿で女神に仕える人びとと生活をともにした女性人類学者のエッセイだ(國弘暁子)。フィールドワークをつうじ、自己と直面した経験をこまやかに告白し、そこからシングル、調査の対象、自分について考える。

2章 「シングル」から見える社会
イタリアには「シングレ」という語がある(宇田川妙子)。男女の別が名詞で表現されるイタリア語でなく、性別のない英語の「シングル」からきた「シングレ」という語は、伝統的な家族のありかたから外れた独身者を肯定的にとらえ、もとより独り者にたいし存在した差別観を一掃するべく生まれたという。イタリアのセーフティ・ネットの機能をもつ家族との関係のありかたは、独り者がより孤立しやすい状況である現代日本に、長年イタリア社会で友人関係を育み、人びとの目線で社会をみてきた筆者が大きなヒントを投げかける。シングレと一人、シングルは異なるのである。
つづいて移民社会、フランスのパリにおける家族、シングルのありかたが描かれる(植村清加)。家族のかたちも法からして多様化を認め、日本よりも離婚率は高いが再婚率、女性の出産率も高いフランス。故郷の伝統的思考を残した、あるいはそう思われている移民のあいだでも、フェミニズムをへた現代、個人それぞれが人生のある期間をすごす家族と子どもにも責任をもち、最終的には個々のシングルとして、他者とその都度自然につながりながら生きている。
極めて単身世帯の多い北欧社会からは、日本の一般の感覚とはまったく異なる、ひとりの在り方についての各人の考え方、そして周りの受け止め方の事例が示される(高橋絵里香)。同じ事象でも、社会によっての受け入れ方や考え方は驚くほど違うものである。筆者も調査ゆえに滞在しているとはいえ、孤独と戦いながらそこに「居た」こと、だからこそフィンランドの人たちの生きるポリシーへの理解につながっているのだと思われる。
お隣、韓国の若年層は、経済的理由から独立や同棲生活はできず「強いられたシングル」が生まれているという(岡田浩樹)。韓国にはいっけん日本と酷似している問題があり、理解しやすそうではあるが、そう簡単でもなさそうだ。現代の韓国のシングルを含む多様なライフスタイルは、その対極にある「オモニ」(母親)の存在の復権という状況をうみだし、とりわけ女性のシングルは男性中心主義的な社会において母性をもちえない周縁に位置づけられてしまうという。
本章のさいごは、シングルのなかでも寡婦という、しばしばセクシュアリティの対象となりうる存在について扱う(田中雅一)。あるオランダ映画における寡婦、インドの有名な寡婦殉死(サティー)、そして日本をベースにリアルに寡婦のありようを描くコミック、映画、カストリ雑誌やポルノ小説から「寡婦」を考える。男がつくりあげてきた都合がいい女、悪い女の像と、現代のシングルな生き方とはどんな関係にあるのだろうか。フィールドワークからメディア・ウェブ・コミックチェックまで得意なベテラン人類学者が広い視野で、でも分かりやすくシングルのコアとなる表象を描くことで、社会構造のなかの寡婦の地位を文化をこえて表出させてみせる。

 3章 別れの風景
別れと決断というプロセスがあってシングルという状況が創出されるケースとして、はじめにパプアニューギニアのシングルマザーたちを紹介する。マヌス社会のシングルマザーとは、女性にとって人生のなかのちょっとした特殊な浪人期間とでもいえる状況だという。未婚で子供をもつことになった彼女らは、自らの権利は巧みに主張し元パートナーと戦い、また家族親族の相互扶助のつながりのなかで、孤立することなく次なる人生のステップを目指し、明るく暮らしている(馬場淳)。
ポリネシア、クック諸島のラロトンガン・マオリ語には、夫や妻という存在を示す特別な語彙が用意されておらず、男,女の意も持ち合わせている(棚橋訓)。アカポイポとよばれる、長年互いを吟味する関係があってこそ結婚をするかしないか決める実質的な社会であり、男にとって自分自身のふるまいが試され、じつは厳しい社会であることが明らかにされる。
アフリカ大陸の東南側に浮かぶコモロ諸島では、日本で最近いわれるようになった「離活」の方法がある(花淵馨也)。かつて日本では「三行半(みくだりはん)」とよばれた「別れる方法」に相当するといえようか、コモロ流ノウハウを具体例をもって教えてくれる。

4章  闊歩するシングル女性たち
ネパールでは、未婚女性/男性は家族とともに暮らし、とくに「シングル」と言われることも名乗ることもない(幅崎真紀子)。女性の場合、未婚女性と既婚女性では装飾品や化粧の仕方が明らかに異なるという。そして最近、なかでも寡婦となった女性が侮蔑的な意味をふくむ「未亡人」とも訳せる言葉を回避するため、「シングル」と名乗りだす変化がみられるという。これは、さきに田中の描いた文化、時代を超えて共通してみることができる「寡婦」表象がフィールドではどのように現れ、実践されているのか、という具体的事例にもなっている。
つづいて読者も気になる現代日本の状況——「おひとりさま」、アラフォー、アラサーなど主に20代から40代の女性たちに注目する言葉が創出された背景を、社会学の立場から、さまざまな文献にあたり、綿密な調査と分析から整理される(妙木忍)。主婦になることが当たり前であった戦後日本から、それは一つの生き方の選択肢にすぎなくなり、自分に満足するキャリアのシングル女性が出現し前向きにシングル女性が論じられるようになった学術的流れが明らかになる。
次にアフリカ、ケニアの村の女性と都市ナイロビで生きる女性たちを比較対照しながら、いま大きな変化の渦中にある一国に暮らすシングル女性の処遇の違いを描く(椎野若菜)。村での生活が長かった筆者は、ケニア女性のある一定のイメージをもってしまっていたが、都市のエリート女性たちとつきあって日本とそう変わらない話題でもりあがる彼女たちとの付き合いにとまどう。女性の問題として進学率の低さ、家庭内における男女の発言力、権威の格差等あげられるが、都市の働く女性は子ども、仕事ももち、彼女らからは日本よりもはるかにのびのびとした生き方が感じられる。日本と異なり、女性をいきいきと働かせる仕組みとは何であろうか。
さいごの舞台は、インドのヒンドゥー教徒の村である(八木祐子)。モルギーとよばれる女性を物語り形式でおう。九〇年代まで女性から離婚を求めるのは難しかった村で、モルギーさんは八〇年代に18歳で結婚し三年ほどで自分から生家に戻り、決して夫の元に戻らず、街へ出る決心をして自立を始めた。彼女の生き方のプロセスには、社会変化の波の影響とともに、「世界で一番いい男を探す」、すてきな生き方をするユーコという外の世界を知る女性の存在の影響が少なからずあった。

現代の日本人の生き方をめぐる議論は、「既婚」か否かがひとつの争点になっていることは明らかだ。既婚を上位とする社会通念にいつまで価値をおく基準をもちつづけるか、という問題にもなってくる——日本人はもう少し柔軟に物事をうけとめ、状況のさまざまな変化にあわせた、これまでとは「ことなる」生き方についても適応し受け入れられるような社会通念、もしくは基準を育てるべきではないだろうか。それは、もしかすると自分を解放することになるかもしれない。家族を解放することになるかもしれない。
日本のシングルの行方は旬なテーマだ。だがその「基準」を変えるのはいま本書を読んでいるあなた、ではなかろうか。そして読んでいるあなたも、人生を爽快に闊歩するどこかの国の女性たちから、なにか生きるヒントが得られるかもしれない。

DATE : 2012.06.23

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