Single 「シングル」と家族/縁(えにし)の人類学的研究

2011年度第1回研究会

2011年度第1回研究会
日時:2011年6月19日(日)14:00-19:30   場所:本郷サテライト7階
國弘暁子(AA研共同研究員,群馬県立女子大学)
「現世放棄者たちのキンシップ:インド,グジャラート州におけるヒジュラの事例から」
植村清加(AA研共同研究員,東京国際大学)「有縁/無縁社会論の再考に向けて:「シングル」都市パリを生きる人々の構えから」


<発表要旨>
現世放棄者たちのキンシップ:インド,グジャラート州におけるヒジュラの事例から
國弘暁子
群馬県立女子大学 

 本発表は、結婚を通じて子孫をもうける義務を放棄し、親族関係の中で特殊な個であることをやめた現世放棄者としてのヒジュラに焦点を当て、他人との共同生活の営み方、及び、親族の関係名称を介して形成される関係性について考察することを目的とする。
 インドのヒジュラとは、未知なるものを<既知なるもの>へとカテゴライズしようとするグローバルな意図によって「第三のジェンダー」とこれまで表象されてきた。しかし、実際には、インドの社会において三つ目のジェンダーとしての地位が確立されているわけではなく、地域ごとで異なった生き方をそれぞれ生成している。
 インド北西部のグジャラート地域のヒジュラたちは、主に乞食(こつじき)を通じて生を営んでいる。都市部においては、子どもの誕生、嫁入り、新築など、人生の門出にある家々を探し回って印づけをした後に、祝福の歌と踊りを披露して、帰り際に現金と穀類を受け取るしきたりとなっている。また、ヒジュラが帰依するバフチャラー女神の寺院近辺では、毎日のように寺院へと通って巡礼者たちから喜捨を受け取り、年に一度の収穫時期になると、村々を回り各農家から収穫の一部を受け取っている。
 ヒジュラの仲間に入るためには、いくつかの条件をクリアしている者でなければならない。まず、生得としての親族との義務・役割関係を断つことの承諾を親兄弟から得ているかどうかが問われる。そして、結婚する年齢に達していない青年であることが望ましい。幼児婚を経ている者の場合、妻である(あった)女性と同居しながらヒジュラとして生きるという事例もある。ヒジュラとなる上で最も重要なことは、弟子としてその身を引き受けてくれる師匠と出会っているかどうか、である。
 師匠と弟子との関係は、夫と妻というメタファーによって表現される。それは、弟子となる者は献身的に師匠に尽くさなければならないことを意味しているが、同時に、両者の間にセクシャルな情交が結ばれることも暗に示されている。その師弟関係を主軸として、新参の弟子は他の成員とも関係を結ぶが、それらの関係に付随する役割や序列は、母と娘、兄弟と姉妹、祖母と孫といった親族の関係名称によって表現される。そして、それらの役割・序列関係は、一つの師弟関係が解消した場合には一旦無効となり、各二者間には新たな親族の関係名称による役割・序列関係が形成される。 
 何の係り合いもない他人どうしが身を寄せあう集合体に親族の関係名称が導入される意図とは、「本物」の親族を模した「虚構的fictive」な関係を形成することではなく、二者の間に役割・序列関係を形成し、親族の呼称によって互いを規定しあうことにあると言える。つまり、親族としての<かたち>が重要なのではなく、親族の関係名称を用いることで「血のつながり」のない無関係の個と個を関係づけ、二者の間で互いに義務を遂行しあうことが重要なのである。それはまた、「本物」と想定される親族なるものの核をも映し出しているのではないか。


「有縁/無縁社会論の再考に向けて:「シングル」都市パリを生きる人々の構えから」
植村清加
(東京国際大学)

 「シングルと社会」研究会から、「シングルと家族―縁の人類学的研究」に更新して最初の報告となったため、前研究会の成果として出された『シングルで生きる』に寄稿させていただいた話をもとに報告をさせていただいた。東日本大震災の発生により予定から3カ月遅れで行われた研究会だったこともあり、報告時の関心は「シングル」研究についての内容の精緻化よりも、どこに向けて「シングル」を語るのか、描くのかという点にあった。
出版後、市民講座等で世代幅のある男女、既婚者、独身者、シングルマザー等、様々なバックグランドを持つ読者が本に期待した関心やその読み方に触れ、その多くが自分自身の問題として「シングルをどう生きるか」「シングルをどう許容するか」という問題を受け止めておられることを知った。また多くの方々が、家族や社会の「絆」の押しつけや自分が周囲に押しつけることに葛藤しつつも「ひとりで生きること」を積極的に考えたいという姿勢をもっておられた。私たちの身近なところにこうした人々の関心や探求があることに、出版前の私たちは十分気づけていたのだろうか。このことは人類学者が「シングル」や「縁」について話すとき、どこに向かってフィールドの何を話すのか、あるいはどこまでをフィールドの現象として捉えるのかという問いともつながる。それは当然ながら「当たり前の相対化」や社会の比較をして日本の文化を相対化するとかいうものではないのであって、「有縁」や「無縁」という言葉の流通に注目し、人が生きる回路・可能態の方法として語りなおすこと、読者や学生を含めた社会のなかで修正的に語り直すことも今必要なのではないかと考える。
こうした関心から、前半では、災害を経て語り方が変容している点にも考慮しつつ、これまで社会科学で説明されてきた「縁」の説明と日本で盛んになっていた無縁社会論における「縁」議論を整理した。後半ではフランスパリ地域で猛暑が可視化した「無縁」問題とネイバーフットの復興に関する動向のなかで個人主義から生まれるつながりといった議論動向のなかで、「シングルで生きる」に寄稿した研究報告のバックグランドを報告した。
 説得的な議論のためにはフランスの移民についての民族誌的データとフェミニズムとの関連性や移民の社会運動との関連性、パリ地域の都市行政に関する考察の必要性があるのではないか等、様々なコメントを頂くことができた。女性や移民の社会運動といった集合的な流れの時間軸のあるものと、個々のシングルの生をどのような関係に位置づけて描くべきなのかまだわからないが、その模索的作業の先に本共同研究での「シングル」概念が新たに表現できる研究領域を定めていきたい。

 

DATE : 2012.06.23

ページ先頭へ

Copyright (c) Tokyo University of Foreign Studies. All Rights Reserved.

AA研共同研究プロジェクト